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読書のたのしみ [教育雑感]

今日は東野圭吾の「魔球」を読みました。
読み始めると、一気に読み終えないと気が済みません

感想は・・・重い、重すぎる。
高校生にして背負ってきたものが大きすぎた。
信念というか執着というか、彼の生育歴がそうさせたのか。
彼の狂気的な犯行は怖かった・・・。
お互いが傷を抱えて、どうしようもできなかったんだと思う。
どうしようもできないってことが分かるから余計、切なくつらい。

東野圭吾の作品ってほんと切ない~~

二つの事件がうまくリンクして、だんだん謎が分かってきて、ところどころ伏線もあって、おもしろかったです。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここからは国語教育の話。
興味のない方、スルーして下さい。

今、国語教育はいろんな方法があって、よくわからないところが正直なところです。
岡山では「まるごと読み」ってのが主流で、読書を楽しむことにつなげる読み方だそうな。

以前は、登場人物の気持ちを考えて・・・みたいな授業が主流だったんだけど、今は、作者の意図とか作品構成を読み取るみたいな「読み方」を学ぶことが主流なんだそうな(ほんと??????)


別に作者の意図とか構成とかいいんじゃないかと思ったのです。
子どもを作家にするわけでも、評論家にするわけでもないんだから。
作品をどう楽しむかが大事な気がする。
ちなみに「魔球」は2つの事件がでたり、最初は事件を予想もさせない高校野球のさわやかな描写が描かれていたり、いろんな物語のしかけがちりばめられています。

でも、この作者の意図を学ぶ必要はあるのかなぁ?
もちろん学んでもいいとは思う。
でもそれより、まず物語を愉しむのに必要なことがある気がする。

まず、漢字が読めないと(爆)
おはずかしながら「鋸」読めませんでした。
でも前後の文脈からきっと「のこぎり」だと思って確認したらビンゴ。
だから、前後の文脈から分からない言葉を予想する、調べるってのは必要な力な気がする。
そして言葉の意味を知らないと。
いろんな表現や微妙なニュアンスを読み取れるのと読み取れないのとでは愉しみの深みが違うと思う。

なーんか問題解決学習とか言っているけど、自分が一読者として物語の世界に入った時、そんな問題解決の力なんていらないと思ってしまいました。
それより描写からどれだけ想像できるか、とかどう感じるかとかの方が大事な気もするんだけど。
そして感じたことや思ったことを話すことが一番楽しいなぁ。

サヨナライツカにしても魔球にしても他の人はどんな読みをして、どんなふうに感じたか知りたいもん!



書いていてよくわからなくなってきたけど、小学校の段階ではやっぱり
・漢字を正しく読む
・言葉の意味を知る
っていうあたりまえのことをきちんと教えていかなくちゃと思った次第です。
あと、自分が感じたことや思ったことを的確に表現(output)できる力も必要。


子どもたちは割と本好きでよく読んでいるけど、どんな風に読んでいるんだろ??
ちゃんと漢字読んでいるのかなぁ?意味分かっているのかなぁ?
それはどうやったら分かるのか、はたまたそれぞれのレベルで楽しめればいいのかなぁ?
その人の人生経験というか今までの生きざまも読みに影響しますよね。
じゃ、物語の授業では何を目指すのか?

うーん。やっぱり堂々巡りで、訳が分からなくなったのでやめます(苦笑)


魔球 (講談社文庫)

魔球 (講談社文庫)

  • 作者: 東野 圭吾
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1991/06
  • メディア: 文庫



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